「マグノリア」作品が良いほど、評論家や観客から百家争鳴の意見がでます。
実は、私の家の庭にモクレン=マグノリアの木があります。
春になると、うすピンクの大きな花が咲きます。
この花、つぼみ、八部咲きのときは誠に綺麗ですが、満開で中を
見せると少々グロテスクな花なのです。
これは全くの私見ですが・・
人間は見かけが良くても本質はグロテスクな存在、よって
死に際には、己のグロテスクさを懺悔しないでは死にきれないのだ。
映画の最後にあのグロテスクの象徴である「蛙の雨」を降らすことで、
人間も所詮カエル程度のものだと達観し、いままでのグロテスクな
生き方を「許してやるか!」となる。この解釈はどうでしょう?
信じられない事は起きるものだという思わせぶりなプロローグは、
「カエルの雨も降ることある」という下地に過ぎません。
さて内容ですが、正に群像劇 テレビではERやLA・ローで同時進行の
複数劇があり、私はこのタイプは大好きだが、限られた時間の映画では
珍しい、これだけのエピソードをこなすには3時間は必要でしょう
しかも飽きなかったのは、多くの役者がそれぞれの役柄をを掘り下げて
個性的に演じていたからでしょう。
主役無き映画といわれるが、やはり死に際の演技(ジェイソン・ロバーツ)
が一番、今にも息を引きとりそうなのに、グロテスクな悪党だったことが
ヒシヒシと伝わって来た。
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