あまりバイオレンスは得手でない私、つい旅行中に「ファイト・クラブ」
の原作を読んでしまった。むろん原文ではなく翻訳文庫ですが。
レーター(ぼく)によるモノローグ調のまさに現代詩、
ストーリーでなくタイラー思想の詩。いったい、これ映像化できるのか?
これ確かめるべく劇場へ行った。
おどろいた原作=脚本=映画 イメージがそのままの映像だ。
まず、この監督の映像センスに驚く、そしてタイラー(ブラッド.ピット)
ぼく(エドワード.ノートン)マーラ(ヘレナ・ボナム・カーター)3人とも
それぞれ旨い。 特にB・ピットはアイドル俳優脱ブラピに成功した。
まじめに働き、金を貯め、ものを買そろえ、摩擦を避け、出世を
めざす、私達はそんな普通の生活をしています。
しかし本能的に、満たされていないことをうすうす感じているはず、
そこで男達は1対1の素手格闘のファイト・クラブに続々と集まるのだ。
どうもこの映画は「男にもどれ」と呼びかけている気がする。
素手の決闘はじめ、睾丸除去の互助会 やたらの去勢シーン、
P@ニスの1コマ挿入、P@ニスバイブ、やたら男の下半身に拘っている。
そして男ならば反社会的であれと、徹底破壊プロジェクトまで行った。
私はバイオレンスはダメだが、この映画に何か哲学的な意味を感じて
しまい、最後まで集中できました。それにしてもB・ピットの熱狂的ファン
の若者があの反社会的いたずらをマネしないことを祈るばかりです。
「ファイト・クラブ」は原作のイメージを守り続けた映画であったが
最後の最後、ラストシーンは大胆にも全く逆にしてしまった。
この意図は何なのか?監督自身の説明を聞いてみたい。
映画仲間のラストシーンの印象では
Aさん「ビルが破壊され、それがきれいだった」
「新しい自分として一から始めようとしている」
Bさん 私もなんらかの「希望」みたいなものを感じました。
Cさん 「まあ一種のブラック・ユーモアだろうけど、毒も過ぎると
いっそ爽快ですな」。
Dさん 「世紀末を無事過ごさせてしまいそうな不幸と閉塞感」
私は「はは~監督、最後に映画にしちゃったな!」と思いました。
原作では(ぼく)とタイラーは爆破ビルの屋上にいるのです。つまり
死ぬ覚悟なのです。タイラーは言う「俺達は本当に死ぬわけじゃない」
この意味は死んでもファイトクラブの神として永遠の名前が残るという
ことでしょうか?
しかし爆破は不発失敗だった、その瞬間(ぼく)とタイラーが完全に
一体化します。しかし銃の引き金を引き、タイラーを始末した。
同時に(ぼく)も死んでしまう。これが原作です。・・
もともと(ぼく)には死への願望があったのかもしれませんが
これではカルト教団の教祖の自殺にすぎなくなります。
監督がこれを大胆に変えたことは評価します(これ全くの私見ですが)
多分、(デヴィッド・フィンチャー)監督は前作「セブン」'96の結末で
「後味悪い」と大きな批判をうけたので、今回は反省し「生きる」結末に
したのでしょう。
かってな推論まことにSorryでした。
投稿情報: 05:38 カテゴリー: 1999 1998 見た映画, ふ | 個別ページ | コメント (0)
「ファイナル・ファンタジー(F.F)」と「やまかし」を連チャンで
観てしまいました。本来は別っこにすべきところですが、月末で
忙しいのでこの際、ごちゃまぜにして強引に一括論評お許し下さい。
今回は2本分ですので長いですゾ
まずどちらも脚本自体はど~ってことない作品であります。
どちらも演技派役者は一人も出ません、むしろ大根役者ばかり
両者とも心の奥を揺さぶる様な感動作品ではあり得ません。
F・Fの監督は何と!日本人(坂口博信)氏ゲームソフトF・Fの作者、
ゲーム大ヒットしたので今回の映画化と相成った由、ハワイで3年半
掛け、製作費は157億円とはすごい!
一方「ヤマカシ」はフランスの(リュック・ベッソン)制作費は多分・・
かなり安そうだ。「ジャンヌ・だるく」で金使い果たしたのか?
「F.F」は純粋全CG(Computer・Graphic)映画
「ヤマカシ」はアンチCG映画(昨今のアクションでは珍しい)
CGによるメカニックや天体描写はさすが中々なものでありました。
そもそもCGとは本来、人間では到底やれないアクションを現実化させる
ツールだ。
しかしどうだろう、この「F・F」の人間動作は緩慢過ぎるのだ。
そうか!CGを出来るだけ本物の人間に近づけ様とすればするほど
動作がノロマになるのだ。これは全く自己矛盾と言えよう
一方「やまかし」はCGを一切排除して、肉体限界のどこまでアクション
出来るかがテーマだ、つまりマトリックス的アクションを生身でやろう
というのだ。ビルを素手でのぼり、高い塀やビルの谷間を派手に飛越える
ドーベルマン犬との追っ駆けこは、CGを超えていた。
さて人物の表情であるが、F・Fでは髪の毛の一本一本まで表現し、
唇の動きは完全に人間に同調、英語のTH発音は歯の間に舌を挟んでいた。
正に完璧だ、しかし何か変だ、何か足りない、なんだろう?
そうか体臭と汗と不潔さなど生理的なものが足りないのだ、
それと人間のバカさだろうか。
一方「やまかし」のメンバー7名はアフリカ人やベトナム人である
さすがフランスだ、旧植民地の若者ばかり集めて作った映画なのだ。
皆反権力的で、ポリスとの追っかけは正に伝統的スラップスティックだ
ハイテンポで面白かったし、目無し帽を上げた時の顔が妙にかわゆいのだ。
映画というものは登場人物の「汗臭さ」や「間抜けさ」が表現されねば
面白くならないという事が良く判りましたゾ。
今回のCGではまだその域に達しておりません。大根役者の方々も当面
失業しないでしょう。
投稿情報: 09:11 カテゴリー: 2001 見た映画, ふ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
投稿情報: 00:26 カテゴリー: 2003 見た映画, ふ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
投稿情報: 19:10 カテゴリー: ふ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年観た新作ばかりでは、早々ネタ切れになりますので、
2007年観た映画の紹介もさせてくださいませ。
原作がアメコミ(米国漫画)なんだから、
まぁ内容が荒唐無稽でも、文句を言うな!つっこむな!
ということか、
主役4人の掛け合いを楽しめば良いんだ、ということで
「ファンタスティック4 銀河の危機」に一言。
同じ原作者(スタン・リー)の「スパイダーマン」「X-Men」と
比べると、主役達は自分が突然変異したミュータントであることを
悟り、達観して、むしろ楽しんでいるところが、気持ちが良い。
この映画は正に「悩まないX-Men」というところの映画。
よく判らぬ経緯ながら、銀製のオスカー像のような宇宙人
「シルバー・サーファー」がサーフボードの上に乗って、宇宙を
飛び廻り、訪問先の惑星をことごとく粉々に破壊して行きます。
そしていよいよ彼は地球にやって来たということだ。果たして
ファンタスティック4(以下F4)と壮絶なバトルが始まった。
米国ではこのシルバー・サーファーさんはスゴイ人気者で、
F4から独立して自分の主役漫画を持っている人物らしい、
この映画は米国コミックファンにとって2大コミック主役対決
という意味がある由。日本人の私には判らぬ大舞台だったのデスネ。
この映画の面白さは、間抜けなことに 地球的規模の危機の中での、
「内輪もめぶり」に尽きます。
Mr.ファンスティクことリード(ヨアン・グリフィス)と紅一点
スー(ジェシカ・アルバ)の結婚式は事件でメチャクチャ。
F4も敵わぬサーファー宇宙人なのに、F4に負けジと主導権を
握って、遭えなく敗退の米陸軍大将は無謀で、まる馬鹿だ。
そしてややこしいことに、ドクタードゥーム(ジュリアン・マクマホン)
が復活、どさくさに紛れて自分の欲望を果たそうとするが、サーファーに
ぶっ飛ばされる。彼の欲望?とて、地球が滅びたら何もなるまい。
それにしても戦後直後の映画ではあるまいに、最後の日本式結婚式は
何!どこか得体の知れない東洋の結婚式!この手の映画の上得意先
の市場である日本をバカにしている。
まぁ軽薄なアメコミなんだからと 無視すべきなのでしょうネ!
投稿情報: 04:59 カテゴリー: 2007観た映画, ふ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
投稿情報: 00:22 カテゴリー: 2005 見た映画, ふ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
世に天敵とかはいるものだが、その二人の戦い振りを古今これほど多く、
これほどバリュエーションを持って、作品化されて来たものはない。
それは「吸血鬼ドラキュラ 対 ヘルシング博士の戦い」であります。
まぁしかし、最初にして且つ究極を作り上げた、英国ハマーフィルム社の、
(クリストファー・リー)ドラキュラ対(ピーター・カッシング)ヴァン・
ヘルシングに勝るシリーズ(1958~)はないと思います。
私にとって、ヴァン・ヘルシングというと必ずピーター・カッシングの
顔が浮かんでくるのは、このシリーズにのめり込んでいた証拠です。
ドラキュラはホラー界最大のスターであります。それと対峙する
ヘルシング役は従来そうそうたる大物役者が演じてきました。
79年「ドラキュラ」のヘルシングはなんとあの(ローレンス・オリビア)、
92年フランシス・コッポラ監督の「ドラキュラ」では(アンソニー・
ホプキンス)、2000年のスクリーム的「ドラキュリア」では私の好きな
(クリストファー・プラマー)が演じてました。
さて今回のヴァン・ヘルシングは今が旬の(ヒュー・ジャックマン)、
しかも主役はドラキュラでなく、ヘルシングの方である。なるほど、
ドラキュラもののバリュエーションを使い果たした観があったが、
この手があったか! しかも彼は無頼なおたずねものにして、且つ
怪物退治のプロという設定である。
よって彼と対決するのは、ドラキュラばかりでなく西洋の歴代怪物、
ジキル&ハイド、フランケンシュタイン、狼男と大集合。
監督は(ステーヴァン・ソマーズ)ゆえ、あのハムナプトラ的CGを
駆使して、迫力満点である。特に狼男の変身ぶりは見事である、
かって観客を驚かしたハウリング('81)の変身などは、もはや子供
だましとしか見えぬほど大進化した。
見所は何といっても、ドラキュラ主催大舞踏会!誠に絢爛で淫靡だ。
そして、ドラキュラの3人の花嫁たち! エロティックで且つ変身
するとグロテスクの極み、ああ!彼女達なら噛まれても良い!
あの退廃的な快楽の世界に共に浸りたい!と思うほどだ。
それにしても、 詰め込み過ぎ!話をいちいち丁寧に追う演出&編集は
ちとくどい、監督少々欲張りすぎて、話のディテールが判らなくなった。
その原因はヒロイン、アナ王女(ケイト・ベッキンセール)の超デカおっぱ、
否!バストとチョ~細のウエストの格差に目が眩み
正直、余りストーリーを追う状態にありませんでした。・・・
話が変な方向に行きそうなので、今朝はこの辺で・・清聴に感謝。
投稿情報: 07:01 カテゴリー: 2004 見た映画, ふ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
フォゲット フォゴット フォーガットン
ああ!受験勉強の苦しみを思い出した。それにしても何ゆえ過去完了
なのだろうか?「忘れさせられた」という受身の意味を含蓄している
からだろうか? という訳で「Forgotten フォーガットン」に一言
人間だけが思い出を心に秘め、生きて行ける動物でないだろうか?
さらに、思い出があるからこそ、生きる価値があるという人もいる。
思い出のアルバムを取るため燃え盛る家にもどり、
火事で焼け死ぬ人も多い、それほど思い出は大事なものだ。
しかしそれが本当の思い出なのか、強い願望が妄想になったのか
判らぬ事もある。
テリー(ジュリアン・ムーア)はある日、9才で事故死した最愛の
息子の思い出の品が全て無くなっていたことに驚愕する。
居間に飾ってあった親子3人の写真は夫婦2人のスナップ写真になった、
家のアルバムには子供が全く写っていない、VTRも消失していたのだ。
夫が捨て去ったと思い、問い詰めたが、夫(アンソニー・エドワード)
から「気が狂ったのでは!二人に息子など居なかった。」と言うのだ。
学校、近所周りの人や社会は子供が存在していたことを認めないし、
実際その痕跡もない、果たして子供の記憶は妄想だったのか?
ジュリアン・ムーアは グレアム・グリーン原作の「ことの終わり」
'99やらマイケル・カニンガム原作の「めぐりあう時間たち」'02を
好演した如く、情緒不安定な役をさせたら天下一品であります。
顔のつくりが美しいけど「陰気で暗い」ので、妄想病に思えてしまう。
普段からアル中ハイマーな私なら、ああそうかも、自分の勘違いか?
直ぐ無かった事にできる。そもそも男というものは自分で子供を作
った実感がない、コウノトリ神話を信じている人もいるくらいである。
母はそうは行かない、なんせあの陣痛の苦しみと出産の満足感を体験して
いるゆえに子供を忘れる事はないのです。
ムーアの濃い演技に対して(ゲイリー・シニーズ)(ドミニク・ウエスト)
など男たちの存在感の無いこと無いこと!母は強し
投稿情報: 04:31 カテゴリー: 2005 見た映画, ふ | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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