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ダークナイト」?怪奇映画かと思っていたら、何と!バットマンの
サブタイトルではありませんか、否サブでなくむしろ本タイトルだった。
「バットマン」といえば、43年前1966年ごろ、日曜夜6時半からの
私にとって楽しみな人気TV番組でしたネ。
バットマンの吹き替えは広川太一郎さん、ロビンは当時我らのアイドル
だった太田博之くんと記憶。声優の大御所広川さんは昨年(2008)逝去
された由、ホント、時の経過を感じますワ。
私がこのTVバットマン(アダム・ウエスト)が好きだったのは
悪党が個性的だったから、キャットウーマン、ペンギン、ナゾラー、
そして何と言っても最悪はジョーカーでした。
平成元年(1989)、丁度20年前に映画化されました。
その時の監督はティム・バートン、バットマンはマイケル・キートン
そしてジョーカー役はあの大物(ジャック・ニコルソン)でした。
いやはや J・ニコルソンの濃いこと濃いこと、あまりの存在感に、
すっかりバットマンが霞んでしまった。
私は正直、ジョーカーはこれで究極をきわめたと思っておりました。
そしたら、今作「ダークナイト」は、バットマンのタイトルを伏せ
あえてダークナイトとしてたのは、主役はジョーカーだったからです。
そしてジョーカー役はヒース・レジャー、はたしてJ・ニコルソンに
勝てるのか?と心配したら、ジャックの究極に勝る出来、鬼気迫るとは、
こういうことなのかと驚いた次第。
悪党というのは、物欲が強すぎる人、名誉欲が強すぎる人の成れの果て
であるが、このジョーカーはそんな欲得に全く関係無い、只只、正義と
いう欺瞞を剥がすだけ、正義派を抹殺するだけ、邪魔者を抹殺するだけ、
もう恐いものは全く無い、やりたい放題、殺し放題。
ゴッサムシティーの市民は恐怖に落ち、そしてこれには、さすがの
悪党仲間のマフィアも恐れおののく結果となった。
TV版のコメディー性も、ティムバートンのファンタジー性も
一切排除して、映画は暗く、暗くシリアスなものに仕上がった。
暗くなるはずだろう
バットマン役の(クリスチャン・ベイル)は2008年7月家庭内暴力で
逮捕された人だし、
英雄的ゴードン警部補は、アルコール依存症だった、あの超悪役者
(ゲイリー・オールドマン)だし、
そしてジョーカーのヒース・レジャーはこの映画完成直後に薬物なのか
自殺なのか?2008年1月、死んでしまったのだ、まるで死を覚悟の?
死を恐れぬ映画のジョーカーそのものだったのです。よって、
2009年ゴールデングローブ賞の助演男優賞を受賞しました。合唱
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投稿情報: 04:20 カテゴリー: 2004 見た映画, た | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
過去が交差する長い年代記、まるでギリシャ神話か叙事詩の世界。
T-4を見て思った。あれ!「ターミネーター3」(2003)は何だったのか?
記憶が全く無いのだ。
T-1もT-2を作った監督はあのジェイムス・キャメロンですもの、
観客に強烈な印象を与え、よく記憶にある。
T-1はストーリーの斬新さと(アーノルド・シュワルツェネッガー)
の素っ裸と彼の異様さが際立ち驚愕したものだ。
T-2(1991)は戦う母親(リンダ・ハミルトン)の強さと、鍛え上げた
筋肉もりもりに目を瞠り、少年ジョン・コナー(エドワード・ファーロング)
が誠にハンサムで、当時、私の娘が熱烈なファンであったと記憶する。
そして今回のT-4、人類の救世主・戦士ジョン・コナー役に
(クリスチャン・ベイル)を擁し、正に戦う戦う戦う、凄い戦士ぶり
と新鋭の映像技術に驚愕した。
それに比べT-3のジョン・コナーは誰で、何をしたのだったか記憶が
全くないのだ。(以前この瓦版に投稿したはずなのに・・)
さて、この映画のストーリーをおさらいすると、時は2029年の未来、
知能を持った機械と人類が戦争しており、機械軍が圧倒的に優勢ながら、
人類軍の英雄ジョン・コナーに手を焼いていた。そこで機械軍は考えた、
ジョン・コナーの母親サラ・コーナーを殺せばジョン・コナーが生まれて
来ないだろうと。機械軍はタイムマシンで過去1984年(T-1上映時)の
ロスに殺人ロボットT800(A・シュワルツェネッガー)を送った。
J・コナーの方は母を守るために、部下のカイル・リースを1984年に
タイムマシンで送り込んだ。そのカイルと母サラとの間に生まれたのが
J・コナーであり、これで話がややこしくなった。
今作T-4の舞台は2018年でJ・コナーは自分の父親の少年時代の
カイルを救うべく戦うのが、正に主題であるが・・・・
この映画、どうも判らぬことが多すぎる、誰か教えて!このころ
J・コナーはカイル少年が将来父親になると知っていたのですか?
そもそも機械軍が殺したいのは、人類の救世主J・コナーである。
J・コナーは自分を犠牲にして、カイル少年を助けようとするが
自分が死ねば機械軍の勝利、つまり自分を犠牲には出来ないハズだが、
おかまえなし無茶しているのは何故?
それから機械軍は人類を捕獲して、皮膚やら臓器を集めていますネ
機械にとって敵である「人間らしいロボット」を造る必要あるのですか?
最初に登場のセレナ・コーガン博士(ヘレナ・バナム・カーター)は
敵ですか、味方ですか? 機械軍側であれば、なにも死刑囚にキスまで
させて献体を頼まなくても略奪すればいいだけと思いましがネ
いやぁ~判らぬことばかり
時空理論が高度すぎるのか?
ハリウッドエンターティンメント脚本がいい加減なのか?
私の理解力が老化衰退しているのか?
たぶん3番目でしょうが ターミネイタリストの皆さん教えて!
監督はTVシリーズもののプロ マックG
マトリックス2を観たからには、「ターミネーター3」も観なければ、
フェアじゃいないという変な義務感に囚われ、劇場へ入った。
1984年の「ターミネーター」からやや20年も経ってしまった。
まぁ、今回また、たっぷりとフルヌードを披露してくれたが、
ターミネーターさん(アーノルド・シュワルツェネッガー)は
20年前の体型を維持しているのに感心した。
「ターミネーター2」では、T‐800(A・シュワルツェネッガー)の
「死」をもっての犠牲で、1997年8月29日の「ジャッジメント・デイ」
(大量核爆発による人類滅亡の日)を阻止してくれたと記憶。
よって我々はヌクヌクと生き残っていられる訳だ。(T-800)に感謝!
しかしコンピューター支配世界(スカイネット)は執拗である、
この2003年に再度、刺客ロボット(T-X)を送り込んで来た。
最新鋭で基本容姿はnice-looking & nice bodyな女型、
能力も大幅アップしたが、やはりデザインの改良が嬉しい。
一方、人類抵抗軍も未来から用心棒ロボット(T‐850)を送り込
んで来た。これは基本容姿は(T-800)と同じだが、前より少々
老けたデザインだ、(・・こればかりはどうしょうも無いネ・・)
能力の方は丁度ソフトをWindows 95から98にupした程度と思われる。
しかし敵の方は名前の如くwindows XP以上の新型、徹底的な差ですネ。
この映画の見所は、男・女ターミネーターのカーチェイス対決。
計らずも「マトリックス2」の見所もカーチェイスで、そのド迫力に
驚愕したが、ターミネーターも負けず劣らずの大迫力、なんせ向こうが
タンクローリーなら、こちらはクレーン車である、しかもワザワザ、
クレーン柱を横に広げて暴走すればどうなるか?
「極めてハタ迷惑な激闘」になるのは必定。これは見てのお楽しみ。
それにしてもマトリックスとターミネーターでは機械対人間という構図
が同じ。未来を回避する救世主なんて双子のようにそっくり。
発達したAI人工知能が人類を支配する世界、方や「マトリックス」、
方や「スカイネット」だ。
残った人類がこのCP世界から送られた刺客と戦う。闘う場所は現在で、
我々凡人はその事実を知らないのも同じ。マトリックス3の完結編を
見たら意外にもターミネーターと同じだったりしてネ
しかしこの「ターミネーター」も「The コア」も元はといえば
米国軍事防衛システムの瑕疵から起こったことだ。
人類を滅ぼすのは天災でも機械でも無い、人類のおろかな欲である。
監督はジョナサン・モストー U571も監督してました。
珍しく、映画には疎い女房に誘われて、「大河の一滴」を鑑賞しました。
このところ観たハリウッド系映画やアニメとは客層が全く違うに驚いた。
我々世代か、さらに年配のオバサン、おじさんばかりだった。
五木寛之ファンは皆、年とったんだナ~と実感。
この映画は五木寛之のベストセラーエッセイを映画化したものだ
原作は読んでないのだが、多分、五木氏自ら、種々なる人間模様の
エピソードを選び原案を創ったのだろう。
それを新藤兼人が脚本化、そして神山征二郎が監督したのだ。
普段、私達が見ているのは大きな人間社会である、しかしその下には
人間一人一人がしっかり生きていて,その人たちにはそれぞれ悲喜交々が
あり、そして、その事にこそ価値があるヨと言っている映画に感じた。
正に「人は大河の一滴」なのだ。
ある29歳の女性雪子(安田成美)とその縁の人におこるエピソードを
淡々と映像化した。ここの出来事は特殊なことでは無く、我々の回りでも
よくあることだ。父(三國連太郎)の癌告知と家族で死を受け入れることは、
もはや日常である。映画の如く,出来うるなら、自宅の畳の上で死ねれば
無上の幸せであろう。
親友(南野陽子)の自殺は事件であるが、男に裏切られた女、またその逆は
日常、山の如くある。また世の中、本当に孤独な人も山の如くである。
何かを求め上京していた雪子が故郷に帰り、幼馴染の昌治(渡部篤郎)の
嫁さんになることこそ皆が一番安心し、自分にも一番合っている(自分の本心)
と判っているのだが、あまりにあるべき姿過ぎるのだ。この踏ん切りのため、
わざわざ彼をお供にロシアに向った。
これ私見であるが、雪子の気持ちは昌治に決まっていたはず、
それを納得するキッカケとしてのロシア行きであったのだ。
全篇を通して、ハンサムなロシア人ニコライ君(セルゲイ・ナカリャフ)は
物語の狂言回に過ぎないと思った。
そして、優柔不断の見える昌治君に雪子をじっと見守る男気を感じました。
映像が美しい、雪のロシアの風景、金沢の浅野川の友禅流し、冬の日本海、
シベリア鉄道の走って行く様子、どれを取っても印象に残るカメラワークでした。
この作品、山を作らず、感動を押し付けず、クサミを極力抑えて淡々とした
日常を表現、物足りない人もいると思うが、私には好きな作品でしたヨ。
投稿情報: 05:18 カテゴリー: 2001 見た映画, た | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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