2012年6月カンボジアの世界遺産アンコール・ワットを訪問した。
歴史的にカンボジアが最も繁栄したのは9世紀から12世紀のクメール王朝
の頃でありインドシナ半島の大半を領土とした。この間にヒンズー教と仏教
の壮大な寺院、アンコール・ワットやアンコール・トムを建立したのだ。
寺院であり、墓であり、そして要塞でもある、広範囲で壮大な遺跡に驚愕し、
王朝の栄華、仏教文明を興味深く見学した。
王の沐浴池「スラ・スラン」に来た時、ここはある時、死体で埋まり血の池
であったと知らされた。観光客には見えない、あまりに残酷で過酷な同国の
近代史があったことを知っておかねばならない。
という訳であらてめて1984年の「キリング・フィールド」に一言
1972年ベトナム戦争はカンボジアにも拡大していた、この内戦をニューヨー
ク・タイムスの記者シドニー(サム・ウオーターストン)と現地記者プラン
(ハイン・S・ニヨール)が取材していた。
1975年、敗北した米国はベトナムから撤退、1975 年カンボジアの米国傀儡
政権ロン・ノル将軍も亡命し、プノンペンは陥落しクメール・ルージュが
凱旋入城してきた。
米軍の撤退により危険が迫っていた、外国人や国の関係者は国外に逃げた。
しかし二人はこの地に残留し、取材を続けた。
プノンペン市民は「戦争が終わった」と喜びクメール・ルージュの入城を
歓迎したが、数日で態度が一変、市民を集団農場に強制移送させはじめた。
財を略奪し、抵抗する者、気にいらぬ者は即座に殺し始めたのだ。
仏大使館に避難したジャーナリスト達は外国人ゆえ帰国を許されたが、
しかしカンボジア人プランは捕まり、集団農場に送られた。
正に恐怖の日々が始まった、特別な理由もなく射殺や撲殺が行われる。
特に元医師、教師などのインテリ層、富裕層であった身分が知れると何処
かに連れて行かれ処分された。監視と抹殺者の選別は子供の仕事であった。
プランは農場から脱走を決意した。そして逃げる途中で夥しい死骸と人骨が
捨てられた池にたどり着いて絶叫した。正にキリング・フィールドである。
極左クメール・ルージュ「ポルポト」により人口の1/3である170万人の国民
が虐殺と飢えで死んだのである。
帰国した(シドニー・シャンバーグ)はこの記事でピューリッツア賞を受賞。
「キリング・フィールド」は彼の手記を映画化したものである。
そしてこの映画でプランを演じたニヨールは、集団農場で強制労働と拷問を
受けた実体験者であったことから採用され、この映画でアカデミー助演男優賞
を受賞した。しかし1996年ロスで強盗に射殺され55才で悲運の生涯を閉じた。
カメラマン役(ジョン・マルコビッチ)の演技が旨い、監督は(ローランド・
ジョフィ)、撮影は今72才「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の
(クリス・メンゲス)でドキュメントタッチが冴えていた。
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