2011 1月 米国のボストンを訪れた。街には大きなチャールズ川が
流れている2004年の名作「ミスティック・リバー」を思い出した。
その時の感想を再計上します。
監督・製作はあの(クリント・イーストウッド)さんです。
映画を見終わって、しばらく言葉が出ない、一緒に見た女房も娘も
黙ったまま。皆、何か衝撃を受けたのだろう、しかし何処が何が衝撃
だったかよく判らない。映画の隅々まで凄かったのは確かだが・・
幼馴染の3人が25年後久々に揃った時、一人は刑事、一人は容疑者、
一人は殺された娘の父親であった。
3人の25年間は表現されていませんので、あくまで私の想像であるが、
刑事ショーン(ケビン・ベーコン)のセリフ「あいつらは友達ではない」
から判断するに、尊大なジミーのいじめやら、デーブへの軽蔑と負い目
の念があったのかもしれない。子供は意外と残酷な存在なのです。
被害者の父ジミー(ショーン・ペン)の極めて印象に残るセリフが
あった。子供のころ3人で遊んでいた時、デーブが変態男に連れ
去られた事件を思い出して、「運命は紙一重、あの時連れ去られた
のがオレだったら、今のオレはない」・・・あいつは運が悪い男と
いう意味だろう・・
しかし映画の終末に、運命の因果を感じた、つまりジミーの娘を殺した
犯人は偶然であろうが、神の帳尻あわせか、そうなる因縁の人で
あったのだ。最愛の娘が惨殺される悲運は、つまるところジミー自身が
作ったということだ。
イースト・ボストンという下町のボス的存在ジミーは娘の復讐を誓う。
それは幼馴染といえ弁明を許さない、自分が始末するということは
正に強者の理論「弱いものは死んでも良い、強いものこそ生き残るべき」
がある。
ラストにその象徴的シーンがある、どうすべきか悩むジミーに
妻(ローラ・リニー)は「私たちは悪くない、この町の支配者よ」と
ささやき、S@Xに持ち込む、亭主の弱点を知り尽くした女の技である。
そしてラストのパレードのシーン、ジミーの妻はデーブの妻
(マーシャ・ゲイ・ハーデン)を冷たく見据えていた。心の中は多分、
「私は亭主をまもるワ、私たちは強者なのだから・・・」だろう。
デーブ(ティム・ロビンス)は存在感を示さない演技に徹した。
そうだろう家族だけを愛しているぬけがらの様な男が、人知れず
始末されるのだ。もう哀れの極み、弱者の極みなのだ。
そして題名「ミスティック・リバー」は街を流れる大河である。
いにしえから、おろかな人間の恨みつらみ、人間の全ての汚物を堆積し
そして、ゆっくりと流し出して行くのでしょう、永遠に・・。
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