高倉健さんが亡くなり、追うように菅原文太さんが亡くなった。
私にとって(高倉健)と云えば1965年から10本作られた「網走番外地」
(石井輝男)監督ゆえ、その喜劇的な雰囲気が好きでした。
(菅原文太)と云えば「仁義なき戦い」1973の広能昌三に尽きますネ
当時、私は深作欣二監督の実録やくざ群像劇にのめり込み、場末の
映画館に入りびたりでした。
さて正月、青森県八甲田山の真ん中「酸ヶ湯」に行った。何と4mもの
大雪が降った。そうか!ここは高倉健の代表作「八甲田山」である。
ということで、「八甲田山」(昭和52年)1977に一言。
北海道生まれ育ちの私は、軽い凍傷の経験もあり、身をもって吹雪の
冬山の恐さを判っている。北海道や北東北の冬山登山は過酷である。
猛吹になると視界を奪い風は容赦なく体温を奪い、手足は先端から
感覚を失い凍っていくのだ。
この映画は史実である、私の祖父は福島県出身で日露戦争に水兵と
して従軍していた。軍隊内では極秘であったらしい、祖父は密かに伝え
られた事実を戦争帰還後、村の人たちによく話していたらしい。
時は明治35(1902)年1月、日本とロシアの関係は悪化し開戦必須の
状態であった。日本陸軍は対露戦を想定し冬季寒冷地の訓練として、
青森連隊と弘前連隊を競わせ「八甲田山の雪中行軍」を実施したのだ。
弘前歩兵第31連隊は 徳島大尉(高倉健)を指揮官として27名
の少数精鋭とした。さらに地元の道案内人7名に先導させた。
一方青森歩兵第五連隊は神田大尉(北大路欣也)を指揮官としたが
大隊長山田少佐(三國連太郎)が同行し多くの物資を運ぶ210名
の大編成隊となった。少佐は弘前に対抗心強く、案内人も不要とした。
果たして北東北に爆弾低気圧が押し寄せた。青森隊は過重な荷で
進行は遅れ、道に迷い次々に前後不覚、兵隊は次々凍死して行く。
放尿から凍結して死ぬ者、全身凍傷で素っ裸になり死ぬ者、立った
まま凍死し、そのまま死の雪像が並ぶ正に白い地獄の様相となった。
結果青森連隊210名中199名が死亡するという歴史的にも
世界最大級の山岳遭難事件となった。
一方弘前連隊は全員無事に任務を果たし帰還した。
用意周到、リーダーシップを発揮した高倉健の男らしさに魅了された。
私は任侠・高倉健は好みでなく「昭和残侠伝」や「日本侠客伝」は
あまり観ていませんが。この作の如き男っぽい「軍人・技術者・鉄道員」
ものが好きである。
この映画、史実をもとにした(新田次郎)の小説「八甲田死の彷徨」が
原作である。さらに脚本は(橋本忍)と(野村芳太郎)ですもの、よく
練れている。撮影は(木村大作)たぶんこの映画から山岳映画にのめり
込んだと思われる。 そして音楽が(芥川也寸志)
そして監督は(森谷司郎)と高倉健の男気を撮り続けた名匠であります。
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